『ぼくのメジャースプーン』わたしたちはきっと考えることを止めてはいけない

出会って別れて、また出会って―あと死ぬまでに何度繰り返すのだろう。ワインバーを営んでいた母が、突然の事故死。落ち着く間もなく、店を引き継ぐかどうか、前原葵は選択を迫られる。同棲しているのに会話がない恋人の港、母の店の常連客だった幸村、店を手伝ってもらうことになった松尾、試飲会で知り合った瀬名、そして…。めまぐるしく変化する日常と関係性のなかで、葵の心は揺れ動いていく―。

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レコメンドレビュー/匿名寄稿

人は罪を犯す。罰は何のためにあるのだろう?日常生活では考えないこと。
ニュースを見ると、毎日のように痛ましい事件の報道を見る。「許せない」と思う。でも、思うだけだ。その罪について、罰について、本当に真剣に考えたことがあっただろうか?

もし、自分や周りの人が事件に巻き込まれた時に考えることを放棄して、感情のままに断罪されることを望んでしまう気がした。被害者が加害者にも同じようにって思うのを、応報感情っていうらしい。私が被害にあったら、それにかこつけて、相手を無責任に傷つけようとするかもしれない。「可哀想なのは私でしょ」って全力で相手を攻撃してしまうかもしれない。

人が人を裁くということの重さ、正解はないんだと思う。
考えるきっかけをもらえたこの本に感謝したい。

私に特別な力はない。でもそれは考えることを止める理由にはならない。

メインレビュー

以下、内容やネタバレを含む場合があります

命の重さには人それぞれの考えがある。あって当然だと思う。

私には「全ての命は平等」、それがもっとも正しいように思える。でも、この国の法律では、お話の中でも問題になったように、うさぎを殺しても「器物損壊」として扱われる。命を器物として扱うことが正しいとされる。それはきっと法律が人間を守るためのものだからだ。私はそれに違和感を覚えてしまう。可哀想じゃないかと嘆いてしまう。命を弄ぶ人間には罰が下るべきだと考えてしまう。でも、命は平等とするなら、害虫や害獣を駆除したり、家畜を殺して食べている私たちも何かしらの罪に問われるべきだ。そこには人間の都合しかなくて、「平等」は存在しないことに改めて気づく。そういった後ろめたさが、うさぎ殺しを「殺人」に類する罪に問えない理由なのかもしれない。

命の重さに正解はないのだと思う。人それぞれ違うことは受け入れなければならない。

だからこそ、第三者が法律というルールに則って公正に罪を決めることが求められるのだと思う。でも、無関係の第三者だからこそ、被害者にとっては冷たく感じることもあると考えると、どこまでもモヤモヤしてしまう。

でも、私がふみちゃんの立場だったらと考える。

「ぼく」の取った選択は、自分の命を顧みない方法で、復讐のために自らが犠牲になるというとても危ういもので、「ぼく」を失うことで、ふみちゃんはもっと深く傷ついてしまうこともあったと思う。

だけど、いつか救いになる時が来ると思う。来て欲しいと思う。

命をかけて、自分のために戦った人がいるということを、その事実が背中を押すことがあると思う。きっと傷ついた心を癒すのは報復ではなくて、誰かの思いや優しさを感じることなのだと信じたい。

最高裁判所にある秤を掲げた「正義」という銅像に顕れるように、罪と罰についてはよく秤を用いて表現される。少年の心には罪の重さを量るための大きな秤はないんですね。幼く未熟であり、また超常的な能力を使って裁く私刑であるからこそ、小さなメジャースプーンで少しずつ掬ってその罪の重さと与えるべき罰を確かめていく。という作品のテーマを表現していますよね。少年と少女の思い出の品として綺麗に装飾されたメジャースプーンが登場しますが、彼らの関係性を表すとともに作品とタイトルを結びつける象徴としての機能美にも惚れ惚れする。

『ぼくのメジャースプーン』小さな小さな「ぼく」の心で量るのは、罰の重さ。

重過ぎても軽過ぎてもいけない、罪と罰のバランスを、小さな小さなメジャースプーンで量る「ぼく」の優しさが希望になる。傷ついて怒り、憎しみながらも、考えることをやめない姿勢に救われる。

きっと大人の私もメジャースプーンしか持ってないのだと思う。
いや、もしかすると大袈裟な天秤は必要ないのかもしれない。ちょっとずつちょっとずつ、自分の目で見極めていくしかない。

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