『揺れる8月の向日葵を、手折る君の手が眩しかった』/遊川小説

 子供の頃の記憶を引っ張り出そうとすると、決まって蝉の鳴き声が脳内に響いた。蝉の声に包まれた回想の中で、幼い彼女のあどけない笑顔が何度も繰り返し再生されるのだ。当時6歳、まだ蝉が「セミ」としてカタカナで耳に響いていた頃、涙を流す「泣く」以外の「なく」を知らなかった頃のことだ。「セミが泣いている」、夏の間中、僕はどうしてそんなに悲しいことがあるのだろうと、毎日毎日泣いているセミたちに思っていた。どうしてこんなに楽しいのに、泣いているんだろうと、そう思っていた。あの頃、夏はそこにあるだけで愉快な存在だった。

「しーくん、あーそーぼー」

 その年の夏、近所に越してきた同い年のみいちゃんは、毎日のように玄関先で僕を呼びに大声を上げた。インターホンに届かないから、そうするのだ。僕は、毎日毎日、その声を聞くのを楽しみに待っていた。自分から誘いに行ったことが無かったのは、子供なりにみいちゃんのことを意識していたからかもしれないと今では思う。

 僕とみいちゃんは毎日のように公園に繰り出したり、庭で水鉄砲で遊んだりして過ごした。お昼を一緒に食べたり、一緒に昼寝をしたり、夜以外のほとんどの時間を共に過ごした。時折、近所の小学生たちに「子供のくせにラブラブだ」などと揶揄われたこともあった。みいちゃんはそんな時いつも下を向いていて、僕はそれを見て、悔しい気持ちを抱きつつも、ただ手をぎゅっと握りながら、逃げることしかできなかった。

 ある日、その近所の小学生たちがみいちゃんをついに泣かせてしまった。新しく買ってもらったという真っ白なワンピースに、泥団子をぶつけた。いたずらのつもりだったことは想像できるが、それにしてもひどい。思えばあの小学生はみいちゃんの気を引きたかったのかもしれない。みいちゃんは、東京という遠い場所から来た女の子で、田舎で生まれ育った僕たちとは違う生き物のようだった。端的に言うと、可愛かったのだ。幼いながらに洗練された容姿は目を引いた。それは子供ながらにも理解できる美しさだったのだ。

 真っ白なワンピースに大きく泥の跡が付き、みいちゃんは号泣しながらうちの前に立ち尽くしていた。それを見つけた母が、みいちゃんをお風呂に入れ、ワンピースを洗った。ワンピースの汚れは落ちず、みいちゃんはいつまで経っても泣いたままだった。

 みいちゃんの泣き声と、セミの泣き声が共鳴していた。なんだかそれを聞いていると、自分まで悲しい気持ちになってきた。みいちゃんが泣いているのは悲しい。みいちゃんを笑わせたい。それは初恋なんていう明確に色のついた感情ではなくて、無自覚で、それゆえに純粋な感情だった。思えばこの時には、既に種は植わっていたのだ。

 みいちゃんを泣き止ませる言葉を知らなかった僕は、みいちゃんの手を引いて、子供の足では少し遠い、向日葵畑にやってきた。僕の頭にはある一つの映像が浮かんでいた。それは母が見ていたワイドショーの後のドラマの再放送のワンシーン。主人公と思しき男性が、涙を浮かべる女性に向日葵の花束を渡すと、それを受け取った女性は、涙を浮かべながらもみるみる笑顔になっていく。そんなシーンを思い出して、僕にできるのはそれしかないと思っていた。

 向日葵の花言葉は「あなただけを見つめる」。おそらく僕が見たそのシーンは告白の場面だったが、当時はそんなことを理解していなかった。ただ、花を渡すと女性を笑顔にできるのだと、少し背伸びをしてテレビドラマの真似事に縋った。

 僕は自分の身長よりも大きい向日葵の首根っこをつかんで、必死にそれを揺らして、引きちぎろうとしていた。何度揺すっても、夏の陽の光を浴びて育った向日葵は頑丈で思い通りにはならなかった。みいちゃんは「かわいそうだよ」と僕を引き留めた。頼りなくTシャツの裾を掴んだその手は、8月が染め上げた真っ黒な色をしていた。みいちゃんは振り向いた僕に、「でもね、ありがとう」と言った。

それから、また手を繋いで二人で帰った。8月に染まった二人はまるで二人で一つの生き物のようだった。あの頃の僕たちは同じ色をしていて、同じ時間を過ごして、同じ場所にいた。

 それから12年後の夏、僕は18歳の受験生になっていた。もちろん蝉という漢字も読めるし、「鳴く」と「泣く」の違いも分かっていた。受験生の僕は、毎日図書館に通っては、地元の本屋には売っていない東京の大学の赤本を広げていた。

「高野、東京の大学行くんだ」

突然声をかけられてギョッとする。後ろを振り向くと、みいちゃんがいた。こうして顔を合わせるのは久しぶりで、やや化粧っ気のある顔は一瞬別人のように思わせた。

「うん、まあ」

「ふーん、頭いいんだね」

飲食禁止の図書館の中で、みいちゃんはアイスをシャリシャリと齧りながら、特段興味も無さそうに言った。

「そっちは?勉強?」

「まさか。冷房効いてるから友達と駄弁ってただけ」

その直後

「みのりー、来たよー」

図書館には相応しくない大声が響いた。声を発した派手な髪色の女性が大きく手を振っていた。その前には体躯のデカさだけが売りの名前も知らない派手な色の車が停まっていた。運転席の男に見覚えがあったが、知らないふりをした。

「じゃあね」

みいちゃんは、僕の知らない「みのり」の顔になってその気色の悪い車に手を振りながら歩み寄っていった。友達は車には乗り込まず、そこでみいちゃんを見送った。みいちゃんは慣れた様子で助手席に座った。後部座席には誰もいなかったのに、助手席に座った。

 みいちゃんが去った後で、日焼け止めの匂いと、制汗剤の匂いが混ざったような匂いがした。僕たちはお互いにあの頃よりも多くの言葉を知ったはずなのに、あの頃よりも上手に話せなくなっていた。

1週間後、みいちゃんは再び図書館に現れた。みいちゃんはいつかと同じような真っ白なワンピースを着ていた。勉強中の僕の背中から声をかけてきた。

「そんな毎日勉強してて楽しい?」

「楽しいとかじゃないよ。部活やってて、ただでさえ遅れてるんだから、必死にやらないと」

「部活なんだったんだっけ?」

「野球部」

「っぽいねー」

みいちゃんは飲食禁止の図書館で炭酸のペットボトルを開けた。静かな館内にプシュッという音が響いた。

「ちょっと、遊びにいかない?友達にドタキャンされた」

咄嗟に車の運転席にいた男が過ぎる。「友達」というのは願望に過ぎなかった。

「勉強しなきゃなんだけど」

「あー、夏を制するものが受験を制する的なやつ?なんか担任が言ってたかも」

僕は頷いた。

「それじゃあ夏を倒しに行こうよ」

みいちゃんは僕のカバンを勝手に持ち上げると、出口に向かって歩いていった。仕方なくついていくと急に振り返って「チャリある?」と聞いてきた。「あるけど」と答えると、あの頃と変わらない屈託のない笑顔で「じゃあ乗せて」と言った。

 みいちゃんは僕の自転車の荷台に座ると、背中をバンバンと叩いて出発を促した。僕は二人乗りをするのが初めてだった。時折フラつく僕の操縦に「やばい」とか「ウケる」と楽しそうに大声を上げていた。

 言われるがままに辿り着いたのはいつかの向日葵畑だった。と言っても今は昔とは違って、人の手が入っていない空き地で、向日葵の数もあの頃よりも少なくなっていた。耳に、あの夏のセミの泣き声が響いた気がした。

 みいちゃんは向日葵に向かって歩いていくと容赦無く踏み倒した。一本、二本、三本と向日葵を片っぱしから踏み倒していく。突然の暴挙に僕は立ち尽くした。

 中学に上がってすぐ、みいちゃんの親は離婚した。お父さんが浮気をしたとか、そのせいでお母さんが鬱になったとか、そんな噂が瞬く間に拡散した。刺激の少ない田舎では、ご近所のゴシップは主婦の主要コンテンツの一つだった。噂に尾鰭がついて、近所から学校の中にも蔓延し始めた頃から、みいちゃんは徐々に荒んで行った。

 小学校高学年の頃から、僕たちは思うように話せなくなっていた。友達に揶揄われたり、お互いに意識し過ぎたり。そんな風に距離ができ始めた頃だったから、みいちゃんの親が離婚した時も僕は何も言わなかった。何度か近所ですれ違っても、言葉を交わすことなく通り過ぎるだけだった。

 気づくとみいちゃんは僕のことを「高野」と苗字で呼ぶようになり、僕も「廣田」とみいちゃんの新しい苗字で呼ぶようになった。それでも、心の中ではみいちゃんと呼び続けていた。

 助手席のみいちゃんの隣、趣味の悪い大型車の運転席にいたのは、いつか彼女のワンピースを台無しにした男の子だった。やんちゃで腕っ節が多少強いという個性だけで、狭いコミュニティでの自分の地位を確率してきたその男が、今、みいちゃんの隣にいるのだ。

 みいちゃんは向日葵を容赦無く薙ぎ倒していく。あの日、向日葵の花をちぎり取ろうとした僕に「かわいそうだよ」と止めたあの子はもういなかった。向日葵が、薙ぎ倒されていく。僕の初恋が薙ぎ倒されていく。12年の時を経ても、変わらず美しいあの子によって、夏が打ち倒されてゆく。散った花弁が汗で頬に張り付いて、「夏の返り血だ」なんて言葉が頭を過った。あるいは、僕の返り血だったのかもしれない。

 「あなただけを見つめる」。本当はずっとそうだった。ずっと見つめていた。でも、僕は見つめていただけだった。もしも、みいちゃんが辛い時、6歳の夏のように、手をぎゅっと握ってあげられたなら、何か変わっていたのだろうか。

 最後の一本、一番大きな向日葵の茎に手を掛ける。これから首を切られるそいつは、無邪気にそよ風に身を揺らしていた。土で汚れた白いワンピース。あの日に泣いていた少女はもういない。その真っ白なワンピースよりも白く光を放つ両腕は、どこまでも8月を拒絶していた。その腕は僕の日に焼けた腕とは別物になっていた。

 あの頃、同じように真っ黒に染めた両腕は、今はその色も、形も、何もかもが違っていた。僕たちは呼び名も、居場所も、話す言葉も、何もかもが変わっていた。

 みいちゃんは最後の一本から引きちぎった向日葵の花を手に取ると、僕の方に差し出す。

「がんばれ!」

その満足げな表情に、僕は笑っていたけれど、本当は泣き出したくて仕方がなかった。

揺れる8月の向日葵を、手折る君の手が眩しかったから。