『呼んだらすぐに来て』/遊川小説

 せっかくの土曜の夜なのに、彼は仕事だと言って出て行ってしまいました。わざわざ二人分の食材を買って、いつもの2倍重たい買い物袋を両手に持って帰ってきて、彼が来る前に急いで作らなくちゃと彼の好きなクリームシチューを作って待っていたのに、それを一口も食べることなく、彼は出て行ってしまったのです。

 彼の仕事は『ヒーロー』です。それは比喩ではなく、文字通りヒーローなのです。警察や自衛隊がどうにも出来ない事件や事故や災害に颯爽と現れては、人々を救って回るのが仕事です。公にはされていないですが、国から雇われているので国家公務員に当たるそうです。一応所属は警視庁。普段はパトロールがメインの仕事のようだけど、それはおまけみたいなものなのでやってもやらなくてもって感じらしいです。いつもはそれほど忙しくないのに、私が休みの今日に限って仕事だって出ていくのだから、運が悪いというか、仕組まれた嫌がらせなのかもしれないと思ってしまうのです。

 明日仕事が早く終わったら食べるからとっておいてくれと彼は言ったけれど、仕事の後処理だなんだと結局明日食べに来ることはないことも、もう分かっています。それでもいつも少しだけ期待して、料理をとっておくのです。真心を込めて作った料理が、私の愛の結晶である料理が、生ゴミに変わってゴミ箱に沈んでいく時の虚しさを、彼は知らないでしょう。

 ヒーローなんて冗談みたいな仕事、どうしてそんなに使命感を持って出来るのでしょうか。特撮ものみたいに変身ベルトを付けて、本当に変身してしまうなんて。昔からヒーローに憧れてたって、憧れ程度じゃ出来ないくらいに危険で恐ろしい職業です。それを何食わぬ顔でこなして、それほど多くない給料に不満も言わず、ただやりがいだけで満足出来てしまうなんてこんなこと言いたくはないですが、少し頭がおかしいのかもしれません。そんな彼を好きな私も頭がおかしいのでしょうね、きっと。

 ヒーローは犯罪とか災害から人々を守る仕事じゃなくて、不幸から人々を守る仕事なんだと、語っていた彼の横顔が好きでした。昔は、好きでした。彼は人々を不幸から守って幸福にします。その姿を見て彼自身も幸福になります。でもその幸福は私の不幸の上に成り立っているということを、彼は気づいていないのです。私の不幸と引き換えに、見知らぬ誰かが幸せになるなんて、冗談じゃない。

 次の日、やっぱり彼は来ませんでした。分かってはいても、期待してしまう自分が嫌でした。彼を責めたいのに責められない自分が嫌でした。彼の前では、ヒーロー凄いね、頑張ってね、無理しないでね、としか言えない私が嫌でした。私は大丈夫、心配しないで、行ってらっしゃい、としか言えない私が嫌でした。

 その次の休日、私たちは久しぶりに映画を観に行きました。彼の好きなヒーローものでした。観終わった後の彼の興奮した様子が腹立たしくて、その日私は晩ご飯を作るのをやめました。

 もし、あのヒーローみたいに命がけで敵に立ち向かわなくちゃ行けないって時にさ、私が行かないでって言ったらどうする?

 そんな他愛もない空想の話ですら、私は口に出すことが出来ませんでした。彼はきっと、そんな私を無視して行ってしまうことが分かってしまうのですから。申し訳ないけどそれでも行くよと言う彼を、しょうがないなあって気にしていないフリをして許さなくてはいけないのですから。

 ねえ、私が呼んだらすぐに来てよ。私が泣いていたらすぐに来てよ。誰かが助けを求めていても、私が呼んだらすぐに来てよ。何を置いても、私を選んでよ。

 言っても無駄です。考えても無駄です。だって彼はヒーローなのですから。それに私はきっと、彼のヒロインではないのですから。泣くことも怒ることも許されない、エキストラの一人にすぎないのです。それでも、それでも私は、彼が好きなのです。

 ねえ、私が呼んだらすぐに来てよ。 

 そんなこと、考えずに済むのなら、私は幸せになれるのでしょうか。