『She said』/遊川小説

 早朝、目が覚めた。窓の外の冬の朝は、まだ夜の顔をしていた。週に二日か三日、こんな風に早めに目が覚める日がある。仕事を開始するまで三時間強、たかだか数時間、しかし労働者であれば日中の業務効率を考慮してもう一眠りしておくべき時間だが、僕は自分にそれを禁じていた。横のベッドに目を遣ると、彼女はいつものように静かな寝息を立てて眠っている。この五年間、一度たりとも目を開かない彼女は今日も穏やかな寝顔を浮かべていて、それだけが日々の唯一の救いで、同時に変わることのない表情は耐え難い寂寥感を日々際立たせていた。

 彼女が眠りについて五年、その間に一度だけ僕は二度寝をしたことがある。三〇分程度の適度な二度寝は幸福度を高めるらしいという研究があるそうだが、僕の場合は真逆だった。目を覚さない彼女のすぐ隣で、愚かしくも再び目を閉じて、睡魔に身を委ねた。そうして目を覚ました時に抱いたのは心地良さや幸福感などではなく、罪悪感だった。彼女に訪れるはずの目覚めのチャンスを僕が消費してしまったと、奪ってしまったと、そう感じたのだ。もちろん、僕が何度寝て起きようと、彼女の次の一回にはなんの関係もないことは分かっているのだ。分かっていても、その罪悪感を味わってから、僕は二度寝をしないことに決めた。寒かろうが暑かろうが、仮に体調が優れなくても、一日に一度、自分の分だけ目覚めようと決めたのだ。

 早く起きた日は、リビングに行き眠気覚ましの珈琲を淹れる。ルームメイトの起床時間まで時間があるため、音を立てないよう、最新の注意を払って席に着く。彼には長生きをしてもらうためにも、規則正しい生活を送らせてあげたい。それくらいしか、彼女のために僕ができることは無いのだから。

 朝八時になると、セットしていた携帯のアラームが騒々しく鳴り響いた。鳥籠にかけているカバーを外して、ルームメイトに「おはよう」と声をかけた。ルームメイトは「オハヨー」と小さく返した。白い羽が朝日の光を浴びて輝いていた。
 僕の家にルームメイトの彼、セキセイインコの彼がやって来たのは、彼女が事故に遭い長い眠りに就く一週間ほど前のことだった。ある日突然、なんの相談もなく、彼の鎮座する鳥籠と飼育セットを携えて帰宅した彼女は

「新しい家族です」

と鳥籠の中の白い小鳥を見せながら、満面の笑みで僕に言った。

「何処の馬の骨とも知らない鳥といきなり家族にはなれない」

と僕は言った。勝手に決められて少し腹が立っていたと思う。

「馬の骨じゃなくて鳥の骨よ」

と彼女は言った。思わず笑ってしまった僕が折れて、結局彼を迎え入れることが決まった。けれど、いきなり家族はあれだからということでルームメイトという扱いになった。彼が家族の一員に正式に加入する前に、彼女は長い眠りに就いた。その時から、僕と彼の関係は暫定ルームメイトのままで止まっている。

 休日、医者がやってきた。定期検診と医療機器のメンテナンスを兼ねた訪問だった。彼女を生かしているのは僕ではなく、データとしての彼女しか知らないドクターと彼女の全身を取り囲む機械とそこから触手のように伸びる管たちだということを、改めて思い知らされる。僕がどれだけ気持ちを込めて、愛情を込めて、祈りを込めて彼女に語りかけ、髪を梳き、身体を綺麗に拭き上げようと、彼らの行う無感情な作業と無機質に実行されるプログラムたちの働きの前ではどれほどの価値もないのだと言うことを否が応にも感じてしまう。

 その日の夜、彼女の両親から久しぶりに届いた手紙を呼んだ。その手紙には「娘を楽にしてやってくれ、解放してやってくれ」とおよそ親とは思えない残酷な言葉が並んでいた。目覚める保証もない、目覚めても後遺症が残るかもしれない、ならばこのまま安らかに眠らせてあげたいと、そう書いてあった。今まで娘のためにありがとう、娘の分まで幸せになってくれ、新しい人でも見つけて幸せになってくれとそう書いてあった。僕はこの手紙を読んで気づいてしまった。この人たちの中では既に彼女は死んでいるのだと。勝手に殺して、勝手に区切りをつけて、それを僕に押し付けようとする行為に憤慨した。

「おやすみ」

「…オハヨー」

寝る前に毎日言って聞かせても、彼はいつになってもその言葉を覚えなかった。

「おやすみ」

「…オハヨー」

「おやすみ」

「…オハヨー」

「おやすみ」

「…オハヨー」

僕は何度も繰り返した。彼も負けじと繰り返した。なぜ彼は僕の言葉を聞いてくれないのか。ままならないことばかりの人生で、叶わないことばかりの人生で、どうしてこの程度のことも思い通りにならないのか。

「おやすみだって、言ってるだろ!」

苛立って声を荒らげても、彼には伝わらない。

 休日、いつも通り朝八時にルームメイトの彼を起こす。ルームメイトの住居を掃除して、それから自分の部屋の掃除をして、一週間分の料理を作り置きをする。空いた時間には、彼女の横で本を読んで聞かせる。聞こえているかは分からないが、彼女の見る夢が僅かばかりでも良いものになるよう祈りを込めて読んで聞かせる。それからルームメイトの彼に言葉を覚えさせる。目覚めた彼女を喜ばせるために、目覚めるまでにたくさんの言葉を話せるようにしようと、五年間続けていた。セキセイインコの中には百以上の言葉を覚える個体もいる、長文を覚える個体もいる、百個覚えさせたら目が覚めるんじゃないかと都合のいい妄想を拠り所に言葉を毎日教え込んだ。しかし、彼は五年経った今でも「トリ…ヂャナイヨ」と「オハヨー」の二つしか話せなかった。そのどちらも、彼女が教えたものだった。彼女が彼を連れてきて五年、セキセイインコの寿命は五年から八年という。どれだけ言葉を教え込んだとしても、彼女が目覚める頃に彼が既にいない可能性もあるのだ。それでも毎日言葉を教え続けていた。それくらいしか彼女のためにできることがなかった。そして僕にやりたいこともなかったのだ。

 ルームメイトの彼には名前がない。名付ける前に彼女が眠りに就いてしまったからだ。我が家に来てから一週間、名前のない彼を「鳥」と雑に呼んでいた僕を、咎めるように彼女が言っていた「鳥じゃないよ」を、名前のない彼は今でも覚えている。

 事故の朝、僕は彼女にどうしてセキセイインコを選んだのか聞いた。

「セキセイインコは孤独な鳥だから」

と彼女は言った。なぜかと聞いたら、セキセイインコ属にはセキセイインコ一種のみしか存在しない、仲間がいないからだと言っていた。

「それなら人間も孤独だ。ヒト属にもヒトしかいないから」

なんとはなしに呟いた僕を見て、

「孤独なの?」

と、寂しそうな顔で彼女は問いかけた。それが最後に彼女の顔を見た瞬間だった。

「家族ができたら孤独じゃなくなったんだ」

言いたかった言葉が何度も頭の中で繰り返された。

 彼女が眠りに就いてから十年が過ぎた。

 彼女の代わりに孤独を埋めてくれていたのは、他ならぬルームメイトの彼だった。言葉はいつになっても覚えないし、僕に似てしまったのか無口なタイプではあるけれど、それでも十年間、彼女の沈黙に耐えられたのは彼のおかげだと思う。白い羽が月明かりに照らされている。その美しさに無垢で純粋な彼女の微笑みを思い出す。彼は僕のルームメイトであり、彼女の忘れ形見でもある。

 そんな彼もこのところ食が細くなり、体調が悪い日が続いていた。人も鳥も時間と老いには抗えない。医者は老衰だと診断した。十年も生きられれば大往生だとも言っていた。彼はついに言葉を覚えることはなかった。十年間、毎日教えても何も覚えなかった。だけど「おやすみ」と言うと「…オハヨー」と必ず返してくれる。今ではそれで十分だった。彼と過ごした十年を思い返す、平坦で代わり映えのない毎日だったが、それでも僕に付き合ってくれた。

「おやすみ」

「…オハヨー」

「おやすみ」

「…オハヨー」

「おやすみ」

「…オハヨー」

「おやすみ」

そうして親愛なるルームメイトは旅立った。人間もセキセイインコも孤独な生き物ではなかったのだと、彼女に教えてあげようと思った。僕も、彼女も、彼も、孤独ではなくなったのだと。僕はもう一人の家族の身体を両手に抱き抱えて、最後にもう一度「おやすみ」とそっと呟いた。

「おは、よう」

僕の呟きに呼応するように、消え入りそうな掠れた声が、確かに聞こえた。十年以上も祈り、願い、焦がれてきた声が確かに聞こえたのだ。ベッドに目を遣ると、彼女は朧げな眼差しを天井に向けていた。

 彼女が目を覚ます直前に、もう一人の家族は旅立ってしまった。僕には、彼が彼女を呼び寄せたように思えてならなかった。僕たちの家族も、僕と同様に彼女を愛していたのだと感じずにはいられなかった。そうして僕はやっと気づいたのだ。彼も僕と同じだったということに。僕が二度寝を禁じ、一日に一度しか目覚めないよう己に課したように、彼もまた話す言葉を二つだけにするという制約を自らに課していたのだと。それは無意味かもしれなかったし、ただの自己満足だったかもしれない。それでも、何かをせずにはいられなかった僕と同じように、彼もまた「オハヨー」というたった一言に祈りを込めていたのだ。彼女に向かって毎日、毎日、何時いかなる時でも「オハヨー」と呼びかけていたのだ。そんな彼が最後にもたらした奇跡だったのだ。

「おはよう」

と僕は言った。掌の中の彼はまだ温かった。

「おはよう」

と彼女は言った。

「おはよう」

彼女が、言ったのだ。