『君のせいで夏が嫌いになったよ』/遊川小説

SIDE A

 浅瀬で水をバシャバシャとかけ合って、なんとなく楽しそうな空気感を共有しているフリをしながらも、僕の視線は砂浜に広げられた赤と白のパラソルの下に向いていた。青い空、白い雲、青春の一ページにお誂え向きのシチュエーションに見向きもせず、遠くから僕たちの姿を眺めては時折手を振り、持ってきた文庫本に集中する。そんな作業を繰り返すだけの彼女を、特に変化があるわけでもない光景を、何度も何度も懲りずに見遣っては逸らす。そんな作業を僕も繰り返していた。

 僕は夏が好きだ。暑くて嫌いだと言う人もいるけど、暑いから良いのだ。暑くなかったら海に入ることもできないし、半袖短パンにサンダルで外を出歩けないし、外で食べるアイスが美味しくない。夏休みの始まる前の終わりの見えない休日のワクワク感が好きだし、夏休みが終わる前のささやかな喪失感が好きだった。大学生の夏休みはこれまでよりもさらに長く、お金も足もあるからもっと自由で最高だ。友人に誘われた時は二つ返事でOKしたし、そこに彼女も来ると知ってからはせっかくの夏休みなのに早く時間が過ぎれば良いとすら考えていた。

 そんな待ちに待った今日なのに、彼女と海ではしゃいで遊んで最高の思い出を作るはずだったのに、彼女は海に入らないどころか水着に着替えてすらいない。いつもより少し涼しげなワンピースに薄手のパーカーを羽織って、麦わら帽子と言って良いのか分からない、黒いリボンが素敵な帽子を被っていつもと同じように本を読んでいる。僕も本は好きだけど、海に来たなら海を楽しんで欲しいと思う。海も、彼女のことも好きだから尚更そう思う。

 そして我慢が出来なくなった僕は、友人たちに休憩すると告げてパラソルの方に歩き出した。僕が彼女のことを好きだと知っている連中からの冷やかしが無性に腹立たしい。夏真っ盛りの海はどこもかしこも人がいて真っ直ぐに進むことが出来ないから彼女の元へ辿り着くまでに思ったよりも時間がかかった。戻るまでの間、彼女は一度も文庫本から目を離さなかった。

「あれ、どうしたの?他のみんなは?」

 そう僕に聞きながらもクーラーボックスに手を伸ばし、キンキンに冷えたオレンジジュースを準備するあたり、抜け目がない。そういうさりげなさに僕がやられてしまっているとも知らずに、無邪気なものだ。

「ちょっと休憩。昨日の夜なかなか眠れなかったから。それで早起きだし、朝からずっと運転してたし疲れちゃったかも」

 疲れてるのは本当だけど、海に来たらそんなこと忘れてしまっていた。開放感と高揚感で疲労なんて吹っ飛ぶ。一番しんどいのは帰りだ。彼女のくれたオレンジジュースの冷たさが寝不足の頭に滲みた。

「お疲れ様。運転任せちゃってごめんね?ちょっと休む?」

 彼女は運転出来ないのだからしょうがないのだ。運転出来るのに僕に任せきりにした他のやつらが悪い。彼女は僕に気を遣って行きの車内で寝ないでいてくれたことを知っているので、むしろ感謝すらしている。

「ねえなんでさ、海入らないの?せっかく海来たのに。もしかして夏嫌い?太陽も気持ちいいし、海水浴日和じゃん。あ、ひょっとして泳げないとか?だったら波打ち際で足だけでも海入ってみようよ。冷たくて気持ちいいしさ、せっかく来たのに本読んで帰るだけじゃもったいないよ」

 なるべく責めている感じにならないように気を遣った。もしかしたらのっぴきならない理由があるかもしれないし、単純に水着を忘れてしまっただけかもしれない。ただ、海が嫌いだとかだとすごく残念だ。

「私、紫外線ダメなの。紫外線アレルギーって言ってね、日焼け止め塗ってても長時間太陽の下にいると肌が赤く腫れちゃうの。みんなには言ってないんだけどね。あんまり心配されたくないから日焼けしたくないとか、水着忘れちゃったとかって言って誤魔化してるの。重い病気じゃないし、体質みたいなものだからどうしようもないの。ちなみに夏は好きでも嫌いでもないよ。」

 まったく想像していない答えが返ってきたからびっくりした。みんなに心配かけまいと本当のことを黙っているなんて、その健気で優しい気遣いに胸を打たれた。そして、みんなに秘密のことを僕に話してくれたことがとても嬉しかった。同時に、彼女に太陽の下に身を晒して欲しいなんて密かに願っていたことに罪悪感を抱いた。

「そっかあ、そういう問題もあるんだね。せっかく気持ちいい天気なのに、ずっと日陰にいなきゃいけないのってしんどい?一人でいるのとか寂しいんじゃないかなって思ったんだけど」

 僕がもし同じ立場だったら、きっと周りのみんなが羨ましすぎて距離をとってしまう気がした。どうせ太陽浴びちゃいけないなら、と暗い部屋で引きこもりになっていたかもしれない。

「もうね、慣れちゃった。私も小さい頃とかは普通に外出られたから、それが出来なくなった時は辛かったよ。でも今はもう大丈夫。みんなが楽しそうにしてるのを見てるだけでも楽しいの。それに、私が一人でいるのを気にかけてくれる人もいるから」

 ひょっとしてそれは僕のことなのだろうか?彼女のことをチラ見していたのがバレていたのだとしたら凄く恥ずかしい。凄く、凄く恥ずかしい。

 何を言ったら良いのか分からず、気づくと無言で立ち上がっていた。びっくりしたような顔の彼女を見下ろしながら、咄嗟に口走っていた。

「じゃあ、かき氷買ってくる!何味がいい?おごるよ僕。夏休みバイトばっかしてるし、それにせっかくだからもっと海を楽しんで欲しいよ。入らなくてもさ、海風感じたりかき氷食べたりさ、今度はバーベキューとかやろうよ。テント出せば大丈夫でしょ?まだ夏は始まったばかりだし、今年のうちに出来たらいいよね」

 いきなり立ち上がってたがが外れたように話してしまったから彼女は少し驚困惑していたように思う。けれどすぐに気を取り直して「ブルーハワイ」と微笑みながら注文した。僕は自分から提案したバーベキューの返事を聞く前に走り出していた。だってブルーハワイと告げた彼女の表情がなんとも愛らしくて、勢いで「好きだ」と言ってしまいそうだったから。

 大急ぎでかき氷を買って、行きよりもさらに速くダッシュして彼女の元へと戻った。パラソルの下にたどり着くと、彼女は入念に日焼け止めを塗っていた。もちろん彼女は水着ではなくワンピースなので「背中を塗ってよ」などとお願いされことも無く、何事も無かったかのようにお礼を言ってかき氷を受け取った。

「かき氷のシロップってさ、色が違うだけで味は一緒って言うけど本当なのかな?絶対に味も違うと思うのよね。色でイメージする味になってるってさ、じゃあブルーハワイって何なの?って前から思ってた。私、こういう体質だからハワイに行ったことなんて無いし。行ったことあったって、ハワイの味なんて分からないと思うの」

「それを言ったら、メロンもレモンもイチゴもその味じゃないよね。本物の味を知ってるのに、誰も『これはメロンじゃない!』って怒らないのは不思議だ。盛大な虚偽表示のはずなのに、堂々としすぎてる。かき氷っていう圧倒的な権力が押し付ける色のイメージに納得させられてるだけなのかも」

 正直、食べているかき氷の味が分からなくなる程度には緊張していて、それが彼女にバレないように何となくそれらしいことを言ってみただけだった。彼女は一言、「そうかも」と短い相槌を打って頷いただけだった。

「ねえ、なんでさイチゴ味を選んだの?私、男の子はイチゴよりもメロンとかブルーハワイが好きなものだと思ってた。イチゴってなんだか可愛らしいし、男の子は選ばなそうじゃない?」

 かき氷の味に男の子とか女の子とかは考えたことが無かった。かき氷の定番と言えばイチゴなので何となく選んでいたけど、そこに可愛らしさを感じたことは無かったので新鮮だった。

「何でって、かき氷の定番だし…。それ以外に特に理由はないよ。別にどれも同じくらい好きだし、どれでも良かった。君がブルーなら僕はレッドってそれくらいの気持ちで選んだ」

 我ながら面白味のない答えだったと思う。案の定、彼女には全く刺さらなかった。

「なんだか退屈な答え。選んだと言うより選ばされたって感じで」

 マズいと思った。『退屈』なんて恋愛における最大の敵で、それを意中の相手に対して自ら召喚してしまうなんて。

「じゃあ君は何でブルーハワイを選んだの?」

 苦し紛れにそう問い返した。彼女はブルーハワイのシロップで真っ青に染まった舌をチロっと出して、「見て」と嬉しそうに微笑んだ。

「私ね、かき氷食べた時に舌の色が変わるのって好きなの。爽やかで可愛らしいこの食べ物に、毒々しい着色料がたっぷりと含まれていて、それに蝕まれるジャンキーな感じとか、舌なんて普段見せることもないのに、よりにもよって一番不健康な瞬間を他人に見せたくなってしまう感じって少しワクワクしない?」

 前から思っていたけれど、彼女は少し変わっている。普通かき氷を食べてもそこまで深くは考えない。その「少し変わっている」が、むしろミステリアスで魅力的とすら感じている。僕が焦がれる彼女をもって好きと言わしめるブルーハワイが、純白で高潔な彼女を蒼く染め上げてしまうブルーハワイが、なんだか無性に憎らしかった。

 かき氷を食べ終わると、彼女はおもむろに羽織っていたパーカーと帽子を脱ぎ、綺麗に畳んで鞄の中にしまった。隠れていた白い腕が見えただけで、僕の心臓は少し速くなって、おそらく体温も上昇していた。

「さて、それじゃあ少し海に入ってみようかな。かき氷で冷えた身体もあっためたいし」

 彼女はビーチには適さないタイプの装飾華美なサンダルを履いて、パラソルの外に出た。太陽に照らされた彼女の美しさは、きっとこの夏のハイライトに違いない。何年も日差しを遠ざけてきた真っ白な肌は、夏の太陽の光をこれでもかというくらいに弾き、自ら発光しているのではないかと思えるほど眩い光を放っていた。

 彼女はきっと、夏に愛されている。これほどまでに太陽が似合ってしまう女性を見たことがなかった。彼女の微笑みは太陽の元でこそもっとも魅惑的に映るし、彼女の涼やかな声は暑ければ暑いほど渇いた心を潤してくれる。首筋や額を流れるキラキラとした汗は清らかに輝いているし、風を受けた髪はそれ自体が意思を持っているかのように優雅に舞っていた。

 詰まるところ彼女に最もお似合いなのは僕なんかではなく、夏という時間であり、空間であり、概念だった。僕が愛してやまない夏もまた、僕が愛してやまない彼女を愛している。言ってみればこれは三角関係で、僕と夏はたった今この瞬間に敵同士になってしまった。

 彼女を好きだという気持ちが、僕に夏を嫌いにさせたのだ。競いようのない夏や太陽、かき氷のブルーハワイまでも嫉妬の対象にして嫌いになってしまうほど、僕は彼女に恋をしていた。大好きだった夏を嫌いだと言うことが、僕にとって何よりも正しく純粋なアイラブユーになってしまった。

 僕は太陽に身を晒す彼女の下に駆け寄って、彼女がさっきまで着ていたパーカーと、帽子をそっと被せた。

「やっぱり今日はやめておこう」

 さっきまで夏は良い、海は良いと語っていたはずの僕が引き止めるので彼女は不思議そうに問いかけた。

「どうして?あなたがすごく楽しそうに話すから私も夏が好きになれるんじゃないかって期待したのに」

「それは申し訳ないけど、事情が変わったんだ。ついさっき、たった今、僕は夏が嫌いになったんだ」

 僕がそう呟くと、彼女は無邪気に「どうして?」と笑った。

 僕の秘密のアイラブユーは君には理解不能な愚痴としてしか届かない。それは当然のことだけど、その虚しさに身体の力が抜けていく。僕は彼女の無邪気さに返す言葉を見失っていた。
 ねえ、僕は、君のせいで夏が嫌いになったよ。

SIDE B

 帰りの車の中でも、みんなは元気にはしゃいでいた。ただ一人を除いては。運転席に座っている彼が、今日は途中から元気が無くて心配していた。私と話していた直後からだったから、もしかしたら私が何か気に触ることを言ったのかもしれない。

 そう言えば、イチゴ味のかき氷を選んだ彼に「退屈ね」なんて偉そうなことを言ってしまった。私は彼を少し困らせて、どんな可愛らしい反応が来るのか見たくて、ただいたずら心でそうしただけだったのだけれど、それが彼を傷つけてしまったのかもしれない。

 いつもより開放的な気分になっていたから、普段は言えないようなことも言える気がしていたから、いつも余裕のある彼のみんなには見せないような顔を見たくて、私だけが彼を独り占め出来るあの瞬間を存分に味わいたくて、少し調子に乗りすぎたのかもしれない。でも、それ以降も話はしてくれたし、怒っている様子とかもなかったから単に暑さに参ってしまっただけなのかもしれない。

 それから彼は一度も海に入らなくて、私と一緒に過ごしてくれた。最近読んでいる本の話とか、最近始めたアルバイトの話とか。私と彼は友人の友人くらいの距離感で、会えば会話するくらいの関係が入学時からずっと続いていて、意外とお互いのことを知らなかったのだと気づかされた。

 私は、入学してから割と早い段階で彼のことが気になっていた。今日だって彼が来ると聞いたから来たと言っても過言ではない。どうせ入れないのに海に来たのは彼と少しでも距離を近づけたいからで、その思惑は十分すぎるほどに達成できた。彼のことを沢山知れたし、私のことも知ってもらえたと思う。好きになってもらえたら嬉しいけど、まだそこまでは望まない。

 今日は来て良かった。少しの疑問と不安が残ってはいるけれど、それはそれで青春っぽいのではないかと思う。

 いつまでも熱が覚めない同乗者たちは「夏、サイコー」なんて大騒ぎしてる。みんなしてそれに声を上げて同調しているから、そうしなかった私に注目が集まってしまった。

「どうしたの?ホラ、夏サイコーって」

 まるで当然のことのように促された私は、その場の空気なんてどうでも良くなっていた。

「私?私は、夏は嫌い。厳密には嫌いになった、かな」

 そう、私は夏が嫌い。だって、彼が嫌いだと言っていたから。彼がどうして今日いきなり夏が嫌いになってしまったのかは分からない。それなのに彼の言うことに流されて、ただ漠然と夏を嫌いになってしまう私は、自分で思うよりも単純な女なのかもしれない。

 私がそう言った瞬間の場の静寂は気にならなかった。そんなことよりも、「夏が嫌い」という言葉が彼と私との密やかな合言葉みたいだ、なんて思ってドキドキしていた。秘密の言葉で私の気持ちがバレてしまうのではないかと心配になって、後ろの席からミラー越しに表情を見ようとしたら、ちょうど目が合って思わず逸らした。少し間を置いてもう一度見てみると、彼の口元が少し綻んでいるように見えた。もしかして伝わっちゃったのかな?
 ねえ、私、あなたのせいで夏が嫌いになったの。