『幻影』/遊川小説

 社会人3年目の春は、出会いも別れも訪れない退屈な季節だった。入社して3年目になっても会社では1番下っ端のままだし、別れというほどの別れもない。ただ、緩やかに疎遠になっている高校の同級生なんかとはもう会うことはないのだろうなんてことを漠然と感じていた。仕事は相変わらず馬鹿みたいに忙しいし、いつまで経ってもミスは無くならないし、やりがいも楽しみも見つからない。

 仕事終わりは決まって缶チューハイを買って、歩きながら飲む。父はそんな僕をダサいという。

「男の仕事終わりはビールと決まってるだろうが」

いつ誰がそんなことを決めたのか、いや、誰もそんなことを決めてないはずなのに、飲めないことに罪悪感を覚える。僕は苦いのか酸っぱいのか甘いのかよく分からない、あの大人の飲み物が苦手で、今年25歳を迎える歳になっても、それは変わらなかった。

「ビールってさ、いつまで経っても美味しく感じないんだよね。お酒は好きなんだけどさ。そっちはいいよね、ビールじゃなくてウイスキーが正義だから」

酔っ払いながら彼女に語りかける。

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

彼女は何も言わなかった。

 行きは電車で、帰りは歩く生活で少しの運動をしているつもりになる。そのおかげか、健康診断の結果は良好だし、太ってもいない。学生時代は運動部だったから、体を動かす趣味でも作ろうかと考えてはいるけど、結局行動に移せないのは一緒にそれをしてくれる相手がいないからだ。

「最近体を動かしてないからスポーツを趣味にしようと思ってるんだ。ボルダリングとか流行ってるし、やってみようかな。スポーツとか何が好きなんだっけ?」

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

彼女は何も言わなかった。

 気づくと2本目の缶を開けていた。今日は少し嫌なことがあったから、度数高めのチューハイを煽る。お酒は強くないけど、明日は金曜日だからと僕の気は大きくなっていた。

「聞いてよ、今日さ、めちゃくちゃ怒られちゃってさ。朝から晩まで働いて、怒られることはあっても褒められることはない職場で、好きでもない仕事を好きでもない人たちと続けて、成長してる実感もなくて、転職する度胸もない。そもそもやりたいことがないから惰性でだらだら仕事してる」

上司の怒り顔が脳裏にちらついて、それを打ち消そうとチューハイを煽る。

「そっちはどうなの?勉強の調子は。やりたいことやって、凄いよね。見つけられるのも才能なんだよ。今は何の勉強してるの?大変?」

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

彼女は何も言わなかった。

 お酒が入ると、僕は決まって記憶の中の彼女に語りかけた。彼女の幻影は時折言葉を発するけど、基本的には何も答えない。記憶の引き出しの中に、僕の問いかけに対する彼女の答えが入っていないからだ。その度に僕は彼女のことをほとんど知らないことを実感した。どんなお酒が好きなのか、どんなスポーツが好きなのか、今何を頑張ってて、今何にハマってるのか、友達の名前すらも僕は知らない。あれほど多くの時間を過ごして、心を通わせたと思っていた彼女のことですら、僕はほとんど知らないのだ。それは自らの怠慢であるし、恋人という立場に甘んじた傲慢だった。

 今の時代、スマホを使えばいつだってどこだって連絡を取れる。聞きたいことなんていくらでもその場で聞けるし、声だって聞ける。そう思って何度、スマホを開いたことか。便りの無いのは良い便りとは言うけど、離れて生活する恋人同士にとってはそれは当てはまらないと思う。実際、僕の中での彼女に対する確信は揺らいでいた。緩やかに墜落する飛行機みたいだと思った。今、地面まで何メートルなのか、考えずにはいられない。海外での生活は、僕の想像もできないくらい忙しいだろうし、毎日連絡するのも申し訳ない。会いたい、話したいなんて女々しくて、頑張っている彼女にそんなことを言ったら嫌われるに違いない。紳士の国のスマートな男たちに囲まれて、僕のことなど考えている暇なんてないのかもしれない。嫌な想像が止まらなくなった。

「ねえ、僕のこと、まだ好き?」

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』

彼女の幻影はやはり何も言わなかった。

 彼女のことが好きだった。それは今も変わらない。離れていることに不安を覚えるし、仕事も何もかもやめて、彼女の暮らすエジンバラに行ってしまいたいと思う。こうして語りかける時間、彼女に電話をかけて声を聞きたいと思う。だけどそれを迷惑がられたらと考える。女々しい自分を情けなく感じる。出発の日、空港で彼女は僕に「待ってて」という一言を残して行った。たった一言、与えられた指令を、遂行しなければならない。男らしくどんと構えて待っていなければならない。

 僕は彼女のことをまだまだ知らない。じゃあ彼女は僕のことを知っているのだろうか。僕の誕生日や、血液型や、出身大学とか、好きな食べ物くらいは知っていると思う。でも彼女は、僕が夜な夜な彼女の幻影に語りかけていることや、そうしていないと苦しくて仕方がないことまでは知らない。

 21時の風が冷たい。彼女のいるエジンバラはちょうどランチタイムだ。彼女は今日何を食べて、何をして過ごすのだろう。

 いつもより酔っていたせいか、気が大きくなっていたのか、徐に電話をかけていた。仕事で怒られて、何もかもどうでもいいような気がしていたせいかもしれない。僕から彼女に連絡をしたのは、付き合ってから初めてのことだった。それもまた僕の怠慢だった。

 3回目のコール音で、懐かしい声が聞こえた。

「もしもし?どうしたの?」

彼女の声は迷惑そうにも聞こえたし、久しぶりの電話に驚いているだけのようにも聞こえた。彼女が電話に出てくれたことが嬉しくて、話すことを考えていなかったことに気づく。その声を聞いて、酔いは一気に吹っ飛んでいた。

「いや、その、今何してるの?」

周りが静かなせいか、それとも自信が無かったせいか、口から出た声は普段よりもか細かった。

「友達とお昼食べに来てる」

彼女は短く返した。以前からそうだったような気もするし、突然の電話に苛立っているかもしれないとも思った。

「そっか忙しいのにごめん」

「いいよ、別に」

「えーと、お昼は何食べるの?あ、友達はなんていう人なの?お昼食べたら何するの?」

急に電話をかけて、いきなり質問を立て続けにして、今度は本当に怒るかもしれないと思った。

「どうしたの、急に?酔っ払ってる?」

電話の向こうの彼女は少し笑ったような気がした。

「お酒は飲んでるけど、声聞いたら、酔いが覚めたよ」

彼女は「何それ」と言って今度は本当に笑っていた。それからお昼のメニューと午後の予定と友達の名前を教えてくれた。

「ちょっと待ってね」

そう言って電話から少し離れて友達に英語で語りかけていた。もしかしたら急に電話で話し出したことを謝っているのかもしれない。

 しばらく待っていると、電話から陽気な女性の声が聞こえた。よく聞くと英語を話していた。突然のことに驚いて、センキューとかナイストゥーミーチューとか、教科書1ページ目の英語を話すと、電話の向こうで彼女と彼女の友達が大笑いしていた。

「英語はもう少し頑張った方がいいね」

彼女は笑っていた。

「さっき、友達はなんて言ってたの?」

ネイティブの英語は早くて何も聞き取れなかった。というか英語は元々苦手で、中学レベルですら危うい。

「うーん、秘密。英語喋れるようになって、直接聞いてみて」

悪戯っぽくそう言う彼女の声を聞くと、次第に一緒に過ごしていた頃の空気が二人の間に流れていることを感じる。懐かしい感覚が心地よかった。

「それで、どうしたの?なんか用があったんじゃないの?」

彼女は少し心配そうな声を出した。

「いや、なんとなく声が聞きたくなったと言うか…。ごめん気持ち悪いこと言って」

「そんなことないよ。私も声聞きたいなあって思ってたから」

クールな彼女から思いがけない言葉が飛び出して、それが僕に対する気遣いなのか彼女の本心なのかはいまいち掴みきれなかった。

「あのさ、僕、ヒロカのこと好きだよ」

本当はまだ酔っていたのかもしれない。口をついて出た言葉に自分でも驚いた。言った後で耳がどんどん熱くなっていくのを感じていた。

「うん、私も。本当にどうしたの?今日はなんか素直?というか可愛いげがあって良いね」

たった一言でキャパオーバーしている僕とは対照的に、彼女の反応は余裕があった。

それが少し悔しくて「なんでもないよ」とぶっきらぼうに答えた。

「あのさ、また電話してもいいかな?」

告白をする時みたいにドキドキしていた。これを言ったら引き返せないような、緊張感があった。

「当たり前でしょ?だって私、この1年半くらいずっと待ってたんだから」

彼女は淡々と言ったが、僕にはどうにもそれが信じられなかった。彼女にそんな僕みたいないじらしい側面があるとは到底思えなかった。彼女はいつだって堂々としていたし、連絡を躊躇するタイプではない。

「え?」

「本当は毎日話したいと思ってた。それはそうじゃない?だって海外で生活するのなんて初めてだし、大変なことも多いし、嬉しいこととか驚くこととかいっぱいあるんだから。だけど『待ってて』って言った私が待てなくてどうするんだ!って我慢して必要最小限にしてたんだから。かかってきてくれたらなあって思ってたら時間ばっかり経っちゃって、そうなるともっとこっちからかけづらくなっちゃって」

もしかしたら僕よりも少しだけ男っぽいかもしれない彼女が、まさかそんなことを気にしていたとは思わなかった。彼女の知らない一面を垣間見た気がして嬉しかった。

「僕だって『待ってて』って言われたから、男らしくどんと構えて待ってなきゃって我慢してたよ」

こんな小さなすれ違いに気づけずに、いつまでも二人立ち止まっていたのだと思ったら、なんだかおかしいような馬鹿らしいような不思議な感覚になった。

「そっか」

「そっかって」

「話したかったのは僕だけじゃないんだね。用事なくても、連絡していいんだ」

「うん」

「うんって」

「今度は私からも電話かけるから、待ってて。あ、やっぱり待たなくてもいいからいつでもかけて」

「うん。なんかさ、話さなくても伝わるって、離れてても大丈夫って、お互いのことは理解してるって思ってたけどさ、ちゃんと話さないとお互いのことは理解できないし、大丈夫って安心できないんだよね。今更だけど、もっと話してもっと知りたいと思いました」

「なんで急に敬語なの」

「いろいろ反省したら自然となりました」

「また夜話そう?」

「うん。早起き頑張る。友達にごめんねって伝えておいて」

 9000キロの距離と、9時間の時差と、たった一言に悶々とし続けた僕たちの1年半は、たかだか10分ちょっとの会話で、その靄を晴らしていた。隣で言葉を交わしていた頃に戻っていた。

 翌朝、8時に起きて彼女に電話をかけた。向こうはまだ22時だ。たった9時間の時差、話さない言い訳にはできないことに気づいた。

「おはよう、お昼ぶり」

「おはよう、昨日ぶり」

「声が眠そうだね」

「お互いにね」

そんな他愛もない会話に胸を弾ませていた。

「休みの日だからって、いつまでも寝てちゃだめだよ」

「そうだよね。最近、体を動かす趣味でも始めようかと。何がいいかな?スポーツ、何が好きなんだっけ?」

僕は昨日、彼女の幻想に向けて投げかけた問いを、今度は本物の彼女に向けて投げかけた。

「え?スポーツ?昔はテニスとか好きだったけど、最近はジョギングとかしてる。こっちはのどかで走ってて気持ちいいよ。だから、走るのおすすめ」

そうか、彼女はいまジョギングが好きなのか。新しい一面を知ることができた気がして嬉しかった。これからはなんでも話そうと心に決めていた僕は、少し恥ずかしくて気まずいけれど、帰り道に一人で歩いて帰るときに彼女の幻影に対して語りかけていて、それをしながら寂しさとか虚しさでどうしようもない話とか、仕事がしんどくてどうしようもない話をした。

「今年の夏は帰れるといいなあ」

「うん、待ってる」

 週明け、いつもと変わらないコンビニで缶チューハイを買って飲む。今日は彼女と話す日だから、ちょっと弱いお酒にしておく。付き合いたての頃みたいに、彼女と話すのを楽しみにしている自分が新鮮だった。

 電話をかける前に彼女の幻影に語りかける。もしかしたらこれが最後かもしれないとふと思った。寂しさと虚しさを感じていたのは確かだけど、それに救われていた自分も確かにいた。

「ねえ、僕のこと、まだ好き?」

『うん』

彼女の幻影は今度ははっきりとそう言った。